銭形平次捕物控を相変わらず読み続けている。一つ一つは簡単に読むことができる。しかし、トリックがどうも不自然に感じて、考え込んでしまうこともある。

昨日は「たぬき囃子」という話を読んだ。ネタバレになるが、盗賊どもの一派がたぬき囃子を演じていることで、強盗に押し入る音を消しているという話だ。

人々がたぬき囃子がどこで演じられているか知ろうとしても突き止められない。遠くで聞こえたり、近くで聞こえたり、東の方向かと思えば、西の方向である、という話だ。その理由として、平次が手下のがらっ八に、次のように種明かしをする。

「太鼓は風呂敷を被せると音が鈍くなって遠くの方でたたくように聞こえるし、笛は上手になると、強くも弱くも自由に吹けるだろう」

「あの経蔵には、入り口が一つと、窓が二つある。その一つ一つを開けたり閉めたりして囃すと、、、、いろいろな方角に聞こえるんだ」

と、平次は説明している。しかし、そんなことがあるだろうか。太鼓に風呂敷を被せると音が鈍くなり、遠くで叩いているように聞こえるなんてことがあるのか。

いくら人家が少ない江戸時代でも隣の家の蔵で太鼓を叩けば、隣の家が音の発生源だとすぐに分かるだろうと思う。

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しかし、小説家の野村胡堂は音楽にも造詣が深くて、「野村あらえびす」という筆名でクラシックの音楽評論家でもある。音楽に関して、あんまり荒唐無稽なことを言うはずがないとも思う。

「風呂敷で被って太鼓を叩くと遠くで叩いているように聞こえる」というのは本当のことか、それとも小説の上だけの思いつきか。自分には、こんなことまで気になってしまう。トリックの可能性を追求するのは野暮なことなのか。いちいち細かいことは気にしないで、ただ、読んでいけばいいと思うのだが。