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この年齢になってくると哲学的な思弁に耽ることも増えた。自分の意識が不思議でならない。なぜ自分は自分なのか。自分の持っているこの意識が、どうして自分なのか。なぜ、こんな意識が自分の脳に与えられたのか。自分の脳の中の神経系統の配列から自分という意識が生まれたのだ。しかし、どのような配列から、他人ではなくて、この自分という意識が生じたのか?

二人の子供がいる。この二人の子供には自分の遺伝子が繋がっている。長男が生まれた時には不思議な感じがした。小さな体を私は自分の手に抱えて体を拭いてやった時は、あまりに軽くて、でもそんな小さな生命体が生まれて、それに自分の生命の一部が流れていると思うと、自然の摂理に対して畏敬の念を抱いた。

自分の父と母が亡くなった時は悲しさと同時に不思議な気がした。両親はいつまでも生きているかのような気がしていたが、或る日突然、体が弱くなり、あれよあれよという間になくなってしまった。父と母の意識はどうなったのか。自分を育ててくれた存在が、この世からきれいさっぱりと消えたしまったのだ。不思議だ。そんなことがあるのか。もう二度と両親とは会えないのか。

そして、この自分の存在だが、いつかは消えてしまうようだ。そのことが不思議でならない。もちろん恐怖である。今、パソコンを開いて、文字を打ち込んでいる自分、そのことを意識している自分、これらがきれいさっぱり消えてしまうのだ。「死」という言葉は不吉であまり見たくもなければ書きたくもない。自分はブログを書く時は、できるだけ他の表現を使っている。「なくなる」「消える」「去る」という表現を使うのだ。

さて、自分の存在が消えたら、あとは永遠の無だ。永遠とはどれくらいの長さだろう。1億年よりも長いのか。10億年ぐらいか。あるいは1兆年ぐらいか。それよりも長いのか。もうこの自分の意識が再び生まれることはないのか。

若い頃はこの「永遠の無」を考えるだけで身震いしたものだ。でも、その「永遠の無」が次第に自分に近づいてきている。あと何年生きられるか。その後の永遠の無を、自分は受け入れられるか。恐怖に震えながら受け入れざるを得ないのか。

hhach / Pixabay

 

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