自分は昭和の生まれだ。昭和25年生まれだ。その当時は、年を数えるときは、ずっとこの和暦を使っていた。新聞などでも昭和を用いていた。平成、令和と年号が代わったので、今は、西暦を用いる人が増えた。若い人と話しても、今は2024年と認識する人の方が、和暦を使う人より多い気がする。自分自身も面倒くさいので、もっぱら西暦を使っている。

昭和の頃の町の看板を見ると、漢字やひらがなが使われている。今は、何でもかんでもアルファベットを使っている。ショッピングモールへ行っても、衣服は、ほとんどが英語名かフランス語名を付けている。化粧品ならば、取扱説明書も横文字でないと効用がない、とでも思われているようだ。

子どもの頃は、流行歌がはやっていた。父が好きだったのは、三橋美智也であった。『女船頭歌』『リンゴ村から』等は父が機嫌がいいときは口ずさんでいた。祖父が何かの宴会で『人生の並木道』を歌っていた。その頃は、祖父はかなり体が弱っていたが、それにもかかわらず、機嫌良く歌っていたのを思い出す。

祖父は、私を可愛がってくれていた思い出がある。バイクの前にのせて、田舎道を走っていったことがあった。祖父にともなって都心に行ったときは、食事をしようとした。そのころ、今では信じられないかもしれないが、ガラスケースの中に作ったうどんやソバが入れてあって、そこから自分で取り出すのだ。そんな店に入ったのだ。祖父は、冷えて美味しくないと言って食べなかった。私と妹は、けっこう美味しいと言って食べた記憶がある。

祖父は戦争前は朝鮮半島で土木工事の監督をしていたようだ。戦争で危ういと早々に日本に帰ってきたが、半島に残っていた人は、日本の敗戦後はひどい目にあったと聞く。父に言わせると、祖父は抜け目がなかったそうだ。祖父は小学校卒であるが、あるときに田舎の政治家になった時期があった。この時の経歴書には、蔵前工業学校卒とかいうようなことを書いてあった。あるときに、父がそのパンフレットを見つけて、「じいさんは、蔵前工業学校卒などと書いてあるが、これは今の東京工業大学ではないか。田舎の政治家なんて経歴は皆でたらめだが、うちのじいさんの経歴詐称はひどすぎる」とビックリしていた。すべてがおおらかであった時代で、わたしは嫌いではない。