先日このブログに、村田英雄が糖尿病に苦しんだ話を投稿した。この人の糖尿病との関わりをちょっと調べてみた。

村田英雄は1929年(昭和4年)に生まれた。もしも村田英雄がまだ生きているとしたら、今年で87歳になるはずだ。男性で87歳でまだ存命の人はたくさんいる。彼が食生活に気をつけていたならば、もう少し長生きをしていただろう。しかし、彼の生活は貧乏な中から這い上がってきただけあって、生き方も荒々しくて、節制を中心とした生活はできなかった。

戦後の日本の歌謡を支えてきた歌手の一人として、村田英雄があげられる。彼の歌は私がもの心ついた頃からラジオやテレビでよく聞こえてきた。『無法松の一生』で歌手デビューをはたしたのであるが、それ以降も『王将』『人生劇場』などの曲がも大ヒットして、ますます知名度は高まる。

無法松と村田英雄が何となく重なるような気もする。無法松は小説の主人公であり、無頼の生き方をしたのだ。無法松は大酒飲みである。『無法松の一生』は村田英雄以外の歌手では歌えなかった曲のような気がする。

さて、村田英雄は野菜は食べずにもっぱら肉を中心に食事をして、また大酒飲みであったのだ。(私の知人だが、その人は毎日夕方は外食で一日平均5000円ほど使っていた。酒もたらふく飲んでいた。その人は50歳ぐらいで、黄疸や糖尿病の症状が現れ、医者から酒を禁止された。彼はそれに素直に従い、その結果まだ生きている。そんな人もいる。)

1964年、村田英雄が35歳の時だが、糖尿病を発症した。その後は彼の人生は「糖尿病との闘い」であったと言われている。彼は、「太い声を出すには何より肉を食べることだ」と信じて、肉をたくさん食べたのだ。

彼は、当時の金額で酒場で一晩1,000万円使ったなどの噂が流れていた。いくら稼いでも常に借金まみれであった。(まさしく、無頼としての生き方である。でも、何となく私はあこがれたりもする。)

1973年、村田英雄が44歳の時に、糖尿病が悪化して歌えなくなり、一年間ほど休業したが一応は復帰して再び歌うようになる。

1995年に、村田英雄は65歳の時に、心筋梗塞(うっ血性心不全)で緊急入院する。糖尿病の合併症でもある白内障の手術や心臓のバイパス手術と続いた。(糖尿病もある程度の状態に進めば目も悪化するようだ。私の母も糖尿病で苦しんだが、医者から網膜の毛細血管が出血していると言われた。母は視力が低下したが、失明にまで至ることはなかった。)

1996年5月(66歳の時):右足に壊疽を起こし膝下12センチで切断する。動脈硬化症によって血流が遮断されると、その部分から先は壊死を起こすので切断するしか方法はなくなるようだ。

2000年1月(71歳の時):左足も同様に切断をする。それまでは義足で歩いていたが、それ以降は完全に車椅子生活となる。車椅子でステージに上がり「足は無くても歌は歌えるんだ」と言って歌い続けた。

2002年6月(73歳の時):合併症の肺炎のため、大阪市都島区の大阪市立総合医療センターで死去する。


自分は軽い糖尿病、正常との境界線上だと言われている。HbA1c(%)が6.2%であると検査の結果が出ている。医者からは歩くこと、腹八分にすること、とのアドバイスを受けている。

自分は村田英雄のように大金を持っていないので、大酒も美食も無縁な話である。金のないのが幸いして、さほど糖尿病が悪化していないようだ。村田英雄も歌手としてあんなに大成功を収めなければ、慎ましく生きて、まだ存命だったかもしれない。

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