「女学生」という言葉は死語になったのか。
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最近は「女学生」という言葉はあまり聞かない。女性の学生・生徒ならば、女子大生、女子高校生、女子中学生、女子児童という言い方である。ネットの世界では、女子大学生は JD, 高校生ならばJK, 中学生ならばJC, 小学生ならばJSというような略語が使われる。

女学生という表現は、平成の時代には合わない。どうしても明治、大正、そしてせいぜい昭和の時代にだけふさわしいという感じがする。

高校や大学に進学する人が少なかった時代、ましてや女性で進学できるのは中産階級以上の恵まれた家庭の娘であった。お嬢様、というイメージだ。

清潔さ、清らかさ、慎ましさ、愛らしさ、などがそのイメージに付加される。

安達明の『女学生』などは、その意味で、そのイメージを上手に利用している。上の画像は吉永小百合と梶光夫の映画であるが、可憐な吉永小百合が女学生のイメージそのものである。

そのシーンを見てみると、とても懐かしくなる。この映画に出てくるバスがボンネットバスで面白い。あの頃はバスガールという名前の女車掌さんがいて、料金を徴収していたものだ。やがて人件費の関係でワンマンバスになっていったが、ある意味で味気ないものだと思った。

将来は、飛行機もスチュワーデス(今は、フライトアテンダントというらしい)がいなくなり、入り口で自動改札になるかもしれない。人件費削減で航空運賃はさらに安くなるだろうが。

あの頃も、現代と同じく、男女の間には憧れや恋心があった。そのころは、恋愛をするにはハードルが高いが故に、心の中では、激しく燃え上がったものだった。(今は、ラインを使って呆気ないほど簡単に告白する。もちろん、心理的なハードルは高いだろうが、物理的なハードルは随分と低くなった。)

そんな昔の男女の恋愛を上手に歌ったのが、そして男から見た女性への憧れを上手に歌い上げたのが安達明の『女学生』であった。女性の方も、『女学生』に自分を投影していたのだ。そんな懐かしい曲が『女学生」だ。

女学生という言葉は現代では、死語になったが、でも私のような年代の人間にとってはとても懐かしい言葉だ。