自分が、
よく考えることは、金を持たない老人になりたくない、ということだ。金を持たない老人ほど惨めな者はない、と思う。
自分の父親は公務員だったので、退職金もけっこう貰い、年金もかなり貰っていた。お陰で自分が家を買うときは、頭金を出して貰い、子どもが生まれたときも祝い金をたくさん貰った。いまでも親には深い感謝の気持ちをいだいている。
父が亡くなり、母だけになったときは、母は遺族年金だけで十分にやっていけた。母が寂しいだろうと思って子どもたちを連れてゆくと、家内と子ども二人にお小遣いをくれた。それが目的で子どもたちは「お祖母ちゃんの家に遊びに行きたい」と言うこともあった。
お小遣いを貰ったときの孫たちの嬉しそうな顔を見るのが母の楽しみの一つであった。
母が体が弱くなり、施設を探していたときに、なかなか受け入れてくれる施設が見つからなかった。それで、ちょっと割高の施設に思い切って入れることにした。十分な遺族年金があったからだ。その施設の月々の費用として私も若干お金を出したが、ほとんどは遺族年金だけで大丈夫だった。
母はその施設で1年ほど居て、それから脳梗塞を患った。寝たきりの老人を受けて入れてくれる施設に転院して、最後は看取りまでしてくれる介護病院にはいり、そこで最期を迎えた。いずれにしても費用はかかったが、母の年金と貯金でほとんどを賄うことができた。
これがもしも、母にはほとんど金がなかったとしたら、どうなっていたか。自分の乏しい給料から施設のお金を捻出して、そして諸費用を負担してとなったら、自分はとても母に優しい気持ちになれなかったろうと思う。子が親に孝行する気がするのも、親にある程度の金があっての話だと思う。
さて、今の自分の状態はどうなのか。子どもの教育費でアップアップである。とにかく貯金を取り崩す状態である。あと、何ヶ月貯金が持つかという心配をしているほどだ。
子どもたちが就職して、落ち着くころは、自分たちは無一文になるのは間違いない。そして、自分たちの真の老後が始まるのだ。金のない老人だと、子どもたちは見向きもしないだろう。子どもたちが孫を連れて遊びに来てくれるのも、小遣いをある程度やらからであろう。
「金がない老人のところに、どうして、子どもたちが孫を連れて来るものか。」そんなことを考えると、ちょっと冷や汗が出る。老人でも、ある程度の金は持たなければならない。
自分たちの場合は、それどころか老後破産を心配しなければならない状況なのかもしれない。
自分がいなくなったら、家内は遺族年金をもらうのだ。公務員だった父の年金と自分の年金ではかなり額が異なる。家内の遺族年金はかなり少ないと思う。子どもたちと孫たちが家内のところに遊びに来てくれるか。小遣いも渡さない家内では、誰も訪問しないだろうな、と心配になったりする。
それどころか、この財政状況だと、数年後は、子どもたちに金の無心をしなければならないかもしれない。でも、自分たちが子どもたちに金の無心をするようになったら、もうお仕舞いだろうと思う。親戚を見ていても家族でもお金は大喧嘩のもとであることが分かる。
「金が必要だ、必要だ」と自分に言い聞かせる。しかし、その手立てが見つからないのだ。