祖父はいろいろと仕事をしていたが、兼業という形で米作りをしていた。納屋にはいると名前を何というのか分からないが、精米器みたいな装置とか、籾殻をより分ける器具とかが置いてあった。また、祖父と祖母は冬の時期は田んぼや畑で働くことはできないので、藁で草履を作っていた。祖父や祖母の時代はまだ草履を履く文化が残っていて、草履づくりは冬の時期の金儲けの一つの手段であったようだ。自分も基本的にはズックを履いていたが、ときどきは草履を履いていた。
秋の収穫期の脱穀とか、籾を干す光景や、籾を焼く煙やその匂いは懐かしい。家内は籾殻を焼く匂いは嫌いというが、私は懐かしくて大好きだ。
田んぼへの用水路にはメダカが泳いでいた。もうそこはコンクリートで固められて小動物は棲息していない。
母方の祖父の荷馬車に乗せてもらって異動した思いでもある。あの頃は家の横に家畜小屋があり、馬や牛がいた。母方の祖父は、何でも牛の角で腹をつかれて、牛を育てるのを断念したという聞いたことがある。母方の祖父の家は大きくて、縁側の下に鶏を飼っていて、よく子どもたちは、卵拾いで庭を探し回った思い出がある。その当時の鶏は庭を結構自由に動き回り、夕方になると縁側の下に押し込まれたのだ。でも、今の養鶏場のように狭いところに詰め込まれて、ロボットのように卵を産むことを強制される。現代の鶏とくらべると、当時の鶏はよかったなと思う。
今は、田舎でも虫はあまりいない。その当時は、虫、特に蝿がたくさんいて困ったものだった。食台の上にはえ取り紙をつるして蝿を捕っていた。あるいは食台には網をかぶせて蝿が来ないようにしていた。それでも、食事時には、蝿が来て、私は手で追い払いながら食事をしていた思い出がある。亡き母は、私は蝿がとまった食べ物は絶対に食べない、と言っていた。その頃から、私は蝿は苦手のようだった。昔は、くみ取り式のトイレで必然的に蝿が卵を産み付けるところがあった。トイレが水洗式になってからは、蝿は激減したように思える。
祖父の家は真ん中に囲炉裏があって、そこで火をおこして、上から鍋をつるしたり、火の横に串で刺したボラを並べたことを思い出す。その話は明日にでもしよう。書いているうちに少しずつ思い出してきた。