2016-08-27
YouTube には、 天地真理の歌がたくさんアップされているので、それを見ながら、いろいろと考えてみた。彼女の歌が全盛期であった1970年代の特徴というか、歌手たちは、時代的な制約を受けている面がたくさんある。それは利点でもあったし、問題点でもあった。
当時はテレビが普及していたが、現代のようにビデオや動画が普及している時代ではなかった。天地真理の歌があると、それを数分間ほど堪能して、それで終わりであった。今の時代のように、彼女の歌が何回も再現されて、その特徴とか表情が細かく分析されることはなかった。テレビの画質も現代ほど鮮明ではないので、ある程度はあら隠しができた。現代では、アップになると皮膚のちょっとした傷でさえもよく分かってしまう。
つまり、その時代は人のイメージを簡単に作ることができた。当時は『明星』などという芸能雑誌があって、芸能人をアイドル化して、都合のいい記事ばかり登場させて、芸能人を「完璧な人」に作り上げていった。世の中には、パーフェクトな人はいない。誰でも、暗い情念、隠したい過去がある。そんな面をぬぐいさりテレビの前では完全な人の演技をしなければならない。しかし、1970年代はそれは可能であった。
現代はどうか、テレビでのアップ、不倫をすればすぐに週刊誌に書き立てられる。隠したい過去など、すぐに誰かが発見してtwitter で広めてしまう。
現代のテレビ番組に出てくる人はお笑い芸人が多い。この人たちは欠点があることを前提で笑いを取っている。お笑い芸人を見て完璧な人と憧れることは少ない。お笑い芸人たちは、完璧な人間である格好をする必要がない。不完全な人間であるという前提で番組に出れるのである。これは楽なことだ。もちろん話が上手いとか、笑いのツボを心得ていなければならないとか、彼らの世界での競争も大変だろうが、とにかく自然体で生きていけるのは精神的には楽だろう。
1970年代の天地真理は歌手として大成功を収めた。当時の自分には彼女は「完璧な女性」として現れた。おそらく、当時の自分と同世代の男子諸君も同様に感じたであろう。「愛らしさ」「清潔さ」「清々しさ」「美しさ」「気品さ」など、どの点でも百点満点に見えた。立ち振る舞いに気品があり、その気品さと可愛らしさが自然に結びついていたのである。
もちろん、そのような完璧な女性はこの世にはいない、ということは分かっていた。それが常識だ。しかし、そんな常識を圧倒してしまうような天地真理の気品さであった。それが虚像だと理性では分かっていても、抵抗しきれないのだ。
彼女は自分がどのように世間から見られているか十分に分かっていただろう。所属事務所も彼女のそんな虚像を十分に利用して稼げるだけ稼ごうとしたのだろう。
完璧であり続けようとすることは本人に取って、ストレスの溜まる辛いことである。天地真理はヒット曲が出なくなってから、しばらくして緊急入院をする。病気治療を表面上の理由にしていたが、要は「完璧な女性」として」振舞うことに疲れ果てたのではと思う。
天地真理が30年遅く生まれていれば、マスメディアの発達が著しい時代であるから、彼女も完璧な女性を振舞う必要もない。現代では、そもそも、そのような振る舞いは不可能である。マスメディアがすぐに虚像を嗅ぎつけてしまう。
完璧な女性を振舞う必要がないならば、天地真理は、時々は失敗やヘマをしながら、お笑い芸能人にいびられたりしながら、それでも、可愛くて愛嬌のある女性として、長く芸能界で活躍できたのではないか。
AKBの指原莉乃だが、可愛いらしい女の子だが、わざと三枚目を演じている。飾らない等身大の自分を見せようとしている。これは賢い生き方であり、あまりストレスのかからない毎日だろう。
天地真理が30年遅れて生まれていれば、指原莉乃のような生き方が一番似合っていたのではと想像する。
と、勝手なことを述べたが、年金生活者のたわごととお許しを願いたい。