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これまで、天地真理について第1期から第6期までを時系列的にたどってみた。そろそろ、この記事で一連の話をまとめてみたい。
以前、私は「天地真理の謎」という記事を書いたことがあった。
そこで私が述べたのは、天地真理に関しては両極端の性質が見られるので、どちらが本質か分からないという疑問であった。
自分にとって天地真理は謎である。不思議な存在である。それは極端に相反する二つの性質が彼女の中に両立しているからである。
- 途方もない美しさと途方もない醜さ
- 途方もない清潔さ(清純さ)と途方もない不潔さ
- 途方もない賢さと途方もない愚かさ
青年が女性に対して抱く感情は時々冷静さを失うことがある。要は、過剰に美化するのである。ファンたちはアイドルを過剰評価するのである。そして時には、それが逆方向にブレることがある。
天地真理といえども「単に普通の女性」である。しかし、芸能事務所やマスコミは徹底的に美化してゆく。あらゆる記事が、美しさ、可憐さ、清潔さ、優雅さを強調するように、天地真理を描いてゆく。
しかし、芸能人、特に女性の芸能人にとってこれは大変な負担に感じることがある。常に、スーパーウーマンであることを要求されるのであるから窮屈だと感じるのである。
この作られたイメージが後々まで本人を苦しめるのである。このイメージを脱ぎ捨てようと天地真理は様々なことを試みた。それは彼女のファンにとっては、愚行、不潔な行為と受け取られることもあったろう。
とにかく、彼女のデビュー時の「爽やかさ」というイメージは虚像かもしれない。しかし、ファンたちにとっては、虚像ではなくて実像なのである。
私は、時々、天地真理の音楽を聞く。YouTubeで歌う彼女の姿は、間違いなく美の極致である。ため息が出てしまう。しかし、同時に彼女のその後の人生(醜さ、不潔さ、愚かさ)をも知っている。それが実像なのかもしれない。しかし、その実像を知っていても、私は彼女の虚像としての美しさを堪能するのである。
私は60代のシニアである。20代の青年のように女性を見ることはない。60代のシニアは、女性が生きて行く上で様々な人生経験をすること、人生の山や谷を経験すること、容姿が変化していくことを知っている。過度に美化することも過度に貶すこともしない。単に一人の人間、女性として見ることができる、と自負している。
つまり、この歳になると天地真理の虚像も実像も両方とも受けとめることができる、と思う。虚像も実像も天地真理の一部である。彼女を形成するイメージ群であると理解するのだ。
「天地真理について(2)」の中で、アイドルの定義を紹介している。
そこでは、アイドルの定義として「成長過程をファンと共有し、存在そのものの魅力で活躍する人物を指す」とした。
天地真理の第1期から第6期まで見ていくと、これは彼女の「自分探し」の試行錯誤であり、変貌であると同時に「成長過程」なのである。
彼女が写真集を出したり、ポルノ映画に出演したのも成長過程なのである。こういった彼女の成長過程に寄り添って見守ることができる人が真のファンであると言えよう。
私のブログ「昔の思い出を語ろう」は天地真理について述べた記事がかなりある。これらはファンとしての私の感想の吐露であるし、もう少しキザな言い方をすれば、「信仰告白」であると言える。信仰告白とは楽しい行為である。