大海人皇子と大友皇子
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2016-07-15

関ヶ原の近くに不破関がある。そこを訪問したことがある。今から1,000年以上も前に、672年に壬申の乱があった。きっかけは天智天皇なきあとの王位を争った、叔父の大海人皇子と甥の大友皇子の戦いである。

吉野で蹶起した大海人皇子はこの地に来て、不破の道を封鎖する。そして、激戦のあと、西に向かい瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で大友皇子の軍を打ち破って、勝利を決定づけた。

私が行った時は、不破関の資料館はお休みだったのだが、しばし、この関の果たした役割を考えた。この関は日本を東西に分ける重要な位置にある。この関よりも東は関東と呼ばれるようになったのだ。Wikipedia によれば次のようである。

672年に壬申の乱という日本古代で最大の内乱戦争が起き、天武天皇は翌673年に都(飛鳥浄御原宮)一帯を守る為に、東山道に不破関、東海道に鈴鹿関、北陸道に愛発関、と3つの大きな関所(三関)を設置させた。 こうしてこれ以降、これらの三関よりも東側を「関の東側」という意味で「関東」と呼ぶ習慣が生まれたのである。

現在、この不破関や関ヶ原は中部地方と呼ばれているが、古くはここから東はすべて関東と呼ばれていたことを知った。

この当時は、皇位は弟へ譲るのが普通であり、息子に譲ろうとした天智天皇の行為が壬申の乱のきっかけになったのである。この点、不思議に思っていたが、この当時の人の平均寿命を知ってなんだか謎が解けた気がする。

天智天皇は46歳でなくなったが、これは当時としては、むしろ高齢であったそうだ。40歳を過ぎたあたりで寿命が尽きるとしたら、ほとんどの場合は、息子は若すぎることが多い。政治という大切なまつりごとを司るのは、やはりある程度の年齢経験が必要である。そんなことから、皇位を継承するのは弟ということは自然だと思う。

やがて、平均寿命が伸びるにつれて、子供への皇位継承が当たり前になっていったのではないか。など想像する次第である。

この当時の一般庶民の平均寿命はどれくらいか。皇族や貴族よりも劣悪な栄養事情であり、40歳前後だったのか。Yahoo知恵袋には、30歳前後とある。これは幼児死亡率が高かったので、幼児期を乗り越えた人は40歳前後だったろうと考える。

さて、今の私は60代の半ばの年齢であるから、とっくに鬼籍に入っているわけだ。この時代に生まれたことを感謝したい。話は変わるが、1000年後の人類は、平均寿命は200歳ぐらいになっているのか。この辺りも知りたいところだが。

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