2016-07-14

関ヶ原の戦いを描いた本を読んでいると、小早川秀秋が裏切った章を読むと何だか気持ちが悪くなる。

小早川秀秋は一万五千ほどの兵を率いて、松尾山に陣取って戦いの様子を見ていた。戦いは午前8時頃に始まり、そして、両者が互角の戦いをしていた。家康とは裏切りの打ち合わせをしていたが、なかなか動こうとしない小早川秀秋に家康がしびれをきらして、鉄砲を撃ちかけたのだ。それを切っ掛けとして秀秋も心が定まり、西軍の大谷吉継の陣へと襲いかかった。また、それを見て、脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の武将も寝返り、西軍は総崩れとなって、ここに勝負が決まったのである。

小早川秀秋はまだ19歳という年齢であり、東軍につくか、西軍につくか、迷いに迷っていた。裏切りはこの時代はいくらでもあったことで、そのこと自体は何も珍しくない。ただ、彼の裏切りは、関ヶ原の戦いという天下が注目する中で、その決定的瞬間の裏切りとなったので、歴史に名を残すことになってしまった。

当時においても、後生においても彼の評判はよくない。そして、彼は2年後に21歳の若さで急死する。世間の人は大谷吉継の祟りだと噂したそうだ。また、彼には子どもがいなかったので、お家は改易となった。旧臣たちは新しい仕官先を探しても、関ヶ原での裏切りを責められたため仕官先がなかったそうだ。

祟りではないが、秀秋が急死したのは、世間からの酷評と冷笑が耐えきれなくて、ストレスをためて酒を飲み過ぎて死んだとの話だ。

何だか、現代でもありそうな話である。読んでいると気持ちが暗くなる。たとえば、会社で、社長派と会長派に分かれて派閥抗争をしているとする。すると、みんな考えることは同じであろう。「勝ち馬に乗りたい」である。ただ、違いは、戦国時代ならば、勝ち馬を間違えると自分の命にかかわるが、現代では、せいぜい冷や飯を食らうくらいである。出世が遅れ、ボーナスの査定が低くなる。まあ、命を取られるほどのことはないので、ある意味では、気楽である。

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