大垣城を訪れる。
スポンサーリンク

2016-07-12

昨日は岐阜県の大垣城を訪れる。大垣のインターから降りる。するとすぐにT字路にさしかかる。右折したいのだが、信号がない。そして右も左も次から次と車が通るので、右折のタイミングが見つからない。なぜ信号がないのか?不思議だ。でも、何とかタイミングを見つけて右折した。

ナビに「大垣城」と打ち込んであるので、その指示に従って運転していく。大垣城が見えてきた。ただ、この辺りの道は一方通行が多くて、また駐車場がなかなか見つからない。ちょっと離れたところに何とか見つける。30分が100円との掲示がある。ここに駐車してお城の方に向かう。このあたり大きな公園と隣接している。

「水の都、大垣」という掲示があった。このあたりは昔は川がたくさんあり、交通の手段として使われていたのか?

お城の前にあった銅像、歴史上の誰かの銅像ではなさそうだ。
お城の前にあった銅像、歴史上の誰かの銅像ではなさそうだ。
お城が見えてきた。思ったより小さい。
お城が見えてきた。思ったより小さい。
かなり近ずく
かなり近ずく
お城の裏手に回る。
お城の裏手に回る。

自分の印象としては、思ったよりも小さな城だなという感じを持った。この城は関ヶ原の戦いの時に、石田三成がまずここを本拠地にして、ここで東軍を迎え撃つ予定だったそうだ。

かなり強固な城で、東軍も攻めとるには苦戦しただろう、と歴史の本に書いてあった。であるので、当時はもっと広くて、堀も何重にも囲まれてあり、簡単には落城しないようであった。

しかし、なんらかの理由で東の関ヶ原で戦うようになった。

そのために、大軍は東に移動して、城には7,500名ほどの武士が残ったそうだ。7,500名でもかなりの数であると思うが、とにかく関ヶ原の戦いの時には、相当の数の武士が滞在したのだ。食料などどうしたのか、トイレだけでも大変だったろうと思うが、近くの野原で済ませたのか。

Wikipedia で「大垣城」と「大垣城の戦い」の箇所を引用する。それで今から400年ほど間に何が起こったのか想像してみたい。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際には、当時城主であった伊藤盛宗は西軍に属したため、石田三成らが入城して西軍の根拠地となる。その後、西軍本隊は関ヶ原に移動、城内には福原長堯らが守将となって残るが、関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると東軍に攻囲され落城

このように関ヶ原の戦い(9月15日)のときに、同時に大垣城の戦いが起こったのである。

9月15日払暁に水野勝成、松平康長、西尾光教、津軽為信ら東軍が三の丸に攻撃を開始。三の丸はその日のうちに陥落したと思われる。また、関ヶ原の戦いもこの日で決着がついたので大垣城は敵地に取り残されることとなる。

9月16日夜に相良頼房、秋月種長、高橋元種が水野勝成との交渉によって東軍に寝返り、9月18日に守将の垣見一直、木村由信、木村豊統、熊谷直盛らを軍議を名目に呼び出し謀殺し、大垣城の主だった武将は福原長尭のみとなった。

福原長尭は二の丸が陥落した後も抗戦を続けたが徳川家康の使者の説得により9月23日に松平康長に降伏を申し入れ、開城した。 福原長尭は剃髪後に伊勢浅熊山にこもるが許されず後に切腹した。

歴史を見るといろいろなことが起こったのだな、と感じ入る。血なまぐさい戦国時代、この時代は付き従う主将を読み間違えると大変なことになる。西軍が勝つだろうと信じた人々は、自分の判断間違いのために大きなコストを支払うことになるのだ。

城の中を見たかったのだが、自分が到着した時間は午後の5時半頃だ。係りの人が入り口の戸を閉める最中で、「入れるのは4時半までで、5時に閉館します。今度は早めに来てください。」と教えてもらった。そう、次回は早めに来たいと思う。