2016-07-14
本能寺の変のことを考えると自分はゾクゾクする。つまり、自分が光秀の気持ちになったり、信長の気持ちになったりして、重大な事件に面して、二人はどのような思いをいだいたのかと憶測するのである。
本能寺の変は日本の歴史を決定した大きな流れの一つである。自分は数年前に本能寺の跡地を訪問したことがあった。京都には御池に本能寺があるが、これは移転した後の本能寺であって、移転前の本能寺で、光秀の襲撃が起こったのである。
光秀が襲撃した本能寺はあとは残っていない。そこにはポツンと石碑が残っているだけだ。そして、その地は今は、老人ホームと堀川高校が建っている。石碑には「本能寺跡」とあるが、「能」という字が異なる。右側の旁の部分は、ヒ、去、と記してある。これは何回も本能寺が焼き討ちになったので、火が去るようにとの願いを込めたのである。
信長の最期はちょっと格好いい。自分だったら、取り乱して何をしたらいいのか分からなくなるが、テレビや小説での信長は従容として死を迎えたようで、ちょっと格好よすぎると思える。
太田牛一の『信長公記』によれば、以下のようになっている。(公開しているサイトがあるので、そこから引用する。http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kouki.html)
信長、初め には、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし侯へば、何れも時刻到来侯て、御弓の絃 切れ、其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、是れまで 御そばに女どもつきそひて居り申し侯を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、 仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来なり侯。御姿を御見せ あるまじきと、おぼしめされ侯か、殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引 き立て、無情に御腹めされ、
歴史小説家たちはこの短い文章からその最期の場面を想像して描いていく。NHKの大河ドラマでもこのあたりは圧巻である。まさに巨星墜つ、である。
戦国時代の武将たちは常に死を意識していたのだな、と感じる。辞世の句を普段から用意しておいて、最期は見っともない死に方はしたくないと考えていたようだ。とにかく、親子、兄弟でも殺しあった時代なのであるから、常に死が存在するという意識は強かったと思う。
信長が亡くなったのは48歳である。当時はかぞえで数えたから、かぞえでは49歳である。直後の山崎の合戦に敗れた光秀は55歳という年齢で自刃している。今の自分は60代の半ばであるから、信長よりも光秀よりも長生きをしている。今の自分よりもかなり若い武将たちが常に死を意識していて、最期には自刃して果てたことに、その当時の死生観を想像する。