2016-09-02
江戸時代や明治のころの歴史書を読むと、当時も、やくざがいた。しかし、その時代のやくざは美化されていて、講談などにも語られる。清水次郎長とか国定忠治である。権力者に刃向かう日本版ロビンフッドというところか。国定忠治は東海林太郎の『名月赤城山』などでも知られるように、人気のある侠客である。
しかし、現代のやくざはあまり美化されない。暴力団追放が繁華街の共通認識になってきている。今回の山口組の抗争なども単に迷惑なことだと一般市民からは受け止められている。しかし、漫画などの世界ではやくざの話がよく出てくる。一定の層のファンがいるようだ。
同じ「やくざ」でも、過去の時代と現代の時代では、印象が異なるのだ。
高校時代に川端康成の『雪国』を読んだことがある。高校の先生が名書だと勧めてくれたのだ。一応読んだが、それなりに面白いと思ったのだが、高校生の自分にはよく分からなかった部分も多かった。この『雪国』は、妻帯者と温泉芸者の不倫の物語である。東京に住んでいる金持ちで暇人の島村が越後湯沢の温泉芸者、駒子と2シーズンほど不倫をする、という話だ。高校生には難しい。でも、自分のこの年になるとこの本の価値が分かるようになる。
この当時は、このような形でしか、男と女の愛は示すことはできなかった。結婚と恋愛が別々であると考えられていた。結婚とは家と家の結びつき、子供を作り、その家を反映させていく基盤である。であるから、家庭を持った男が他の家の人妻と仲良くなったり、独身の女性と仲良くなる、ということは大変な社会的な非難を受けた。
男が可能なのは、芸者などの女性と遊ぶことである。そしてつかの間の逢瀬を楽しむ。それはつかの間の情事であり、いつかは終わりが来ることを互いに知っていた。そんな時代的・社会的な制約の中で、書かれた恋愛小説であったので、人々はその切なさを感じながら読むことができた。
これが、島村が東京の妻子を捨てて、駒子と一緒になるという内容の小説ならば、人々はグロテスクな小説として、気持ち悪がったであろう。
現代の恋愛小説はどのようなものが愛読されているのか。現代は、恋愛=結婚であり、恋愛を結婚に結びつけようとする。自分の恋愛感情が結婚に結びつかない苦しみを語った小説が多いと思う。しかし、川端康成の時代は、恋愛を結婚に結びつけて永続化するのは想定外であり、つかの間の恋愛を瞬間的に味わおうとした小説が定番だったように感じる。つまり初めから結ばれることのない事を承知の上での恋愛だったのだ。
あと、駒子が島村から金の無心をすることもないし、東京にいる島村の妻に暴露の手紙を出したりはしない、このあたりも男性の読者が安心して読める小説なのだろう。その当時の男性にとって理想的な恋愛の形である。つまり、男性にとって、かなり都合のいい恋愛を描いた小説なのではあるが。
「昔」と言っても、つい100年ほど前にもてはやされた「やくざの仁義」や「義兄弟の誓い」などは現代人にはアピールしない。恋愛も、「芸者」とのほのかな愛の交流の話では、人々は受け入れない。すべてが、100年ほどで変わってしまったのだ。