天地真理について所感をいくつか述べてみたい。このブログは、昔の出来事の思い出を語るブログであるが、このブログの中でも、人気のある記事は天地真理に関する記事が多い。その意味では、このブログに何人かの人が訪問してくれるのは彼女のおかげと感謝している。そのこともあり、本格的に論じてみたいと考えたのである。

本当は天地真理の現在の動向も追ってゆきたいのだが、彼女は最近は芸能界に顔を出すことはなくなった。なかなか話題が見つからない。最新の彼女の話題をブログに紹介することが難しい。そのために彼女の過去を論じることになる。

ただ、現在はOFFICIAL WEBSITE があり、そこで彼女のスクリーンコンサートの予定とファンクラブの案内がされている。そして掲示板には熱心なファンたちの書き込みが見られる。

ただ、現在でも番組やドラマなどに出演している芸能人と比較すると活動は地味である印象は受けてしまう。おそらく、本人やマネージャーである娘さんの意向で、芸能活動はしない、という方針なのだろうと推測する。

現在の活動は目立たないことから、ここでは彼女の過去の活動についていくつか思い出を語ってみたい。それは活気に満ちた昭和の時代のことを語ることでもあり、その当時若かったわたし自身を語ることでもある。

天地真理のデビュー

天地真理は、いつの間にやら、突然国民的な人気スターになってしまった。戸惑いもあったのではと思う。親が大歌手やあるいはそこそこ成功を収めた歌手ならば、その子たちは、芸能界とは何であるか予想が付くし、その世界に飛び込むには覚悟もあるし、親御さんからのサポートもある。それらがない場合は、自分でも気づかないストレスを抱えることになる。

さて、彼女は母親一人に育てられる。国立音楽大学附属高等学校に入学して音楽の練習を経て声楽科を卒業した。その後、いくつかの曲折はあったが、次第に芸能界で認められてゆく。

いずれにせよ、彼女のデビューは1971年にアイドル歌手として『水色の恋』でデビューし大ヒットした。声はハスキーで、男性に媚びるような歌い方はしない。あくまでも清潔で、広く大衆受けをするような歌い方で、その歌い方に沿った歌詞の内容、メロディーであった。たしかに、天地真理が演歌を歌うのは想像できない。また、女の恨みを連ねるような曲も想像できない。

おそらく事務所の方針なのだろうが、彼女は清潔感と爽やかさを売り物にする歌手となる。そして事務所の方針はあたり、彼女の曲の快進撃は続く。

彼女の初期の歌はどれも大ヒットしたのだが、私自身は『若葉のささやき』が好きであった。その当時の自分は、ある女性と仲良くなって、その女性と会いにゆくときはこの曲を聴いたりした。発売された季節がたしか春の頃で、今でもこの曲を聴くとその頃の浮き浮きした気持とそして自分の愚行を思い出して(あまり語りたくないのだが)、ちょっと寂しくもなる。とにかく、自分には懐かしい曲だ。

恋人たちの港

『恋人たちの港』はとても好きな曲だ。1974年の2月発売の曲だ。この曲のカバーにある天地真理の写真が神がかって美しい。当時の自分は、「これほど美しい人がいるのだろうか」と驚嘆したのである。

当時の私は、「恋人のいない自分だが、いつの日か、人生にチャンスがあれば、こんな素敵な女性とデートすることもあるかな」と夢想していたのである。

『恋人たちの港』のカバー

歌詞も大好きだ。「はじめてよ、二人して、港へと来てみたの」「きらきらと舟灯り、夢見ているみたいにきれい」という冒頭の歌詞は心にしみる。10年ほど前に、ある用事があって、この歌の場面と思われる横浜の山下公園を歩いてみた。若い頃の自分を思い出してみた。

「あれはギリシアの船と、指で教えるあなた」という歌詞がある。この歌詞のおかげでギリシアが非常に高貴な国であるように思えてしまった。最近はギリシアはヨーロッパ連合の中では借金国で国の財政状態が破産寸前という話も聞くが、それでも、40年前に聞いたこの歌詞「あれはギリシアの船と、指で教えるあなた」のおかげで、ギリシアに対する憧れは消えない。

天地真理の突然の病気

このように順風満帆に見えた天地真理だが、1977年はじめに港区三田の東京専売病院に緊急入院した。その理由は甲状腺機能の異常とかいろいろといわれており、本当のことは分からない。ただ、あまりの多忙に彼女自身が疲れたのではと推察する。

さて、これ以降は彼女の人生の第二期に至るのだが、これ以降の時期について述べるのはかなり難しい点がある。天地真理について論じる人の多くが、ここまでは、だいたい同じような論調で語ると思う。

だが、この時期以降については語ることは難しい。逆に言うと、第二期以降をきちんと論じることができれば、それは成功した天地真理論であると言えよう。これは明日以降に、続けて論じていきたい。