市丸という女性の生き方(2)
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市丸が近衛文麿の愛人であったことは有名な話だそうだ。政治家が何人かの妾を持つのは許される時代であった。初代首相の伊藤博文も芸者遊びをしたそうだ。当時のゴシップ新聞は、伊藤博文が当時の有名な芸者と関係を持ったとかどうななどの噂を報道したが、特にそれだからといって政治家として致命傷になることはなかった。

ここで近衛文麿のことを語ってみたい。近衛文麿は政治家として大変人気のあった人である。公家出身で毛並みがよく、また当時の日本人には珍しく180cmの長身であった。また容姿端麗で女性のフアンも多かった。

ただ、上手な聞き手であったが、優柔不断な点があり、信念でもって自分の意見を貫けない点があった。

この点が昭和15年という大変重大な時期にあって致命的な問題となる。日中戦争の拡大に対してほとんで無抵抗であったことで、あの無謀な戦争に関与した人々の一人となる。なにしろ内閣総理大臣であったのだ。東京裁判でもおそらく厳しい判決が出たのではとWikipedia には書いてある。

さて、この近衛文磨だが、A級戦犯として逮捕される前に死を覚悟していた。そして死ぬ数日前は愛人の一人であった山本ぬい子が待っている世田谷区深沢の長尾邸(宜雨荘)に入った。そこで愛人のそばで死のうとしたのである。その時が一番気持ちが安らぐと感じたのであろう。しかし諭されて本宅のもとに戻りそこで服毒自殺をする。

ネットで近衛文麿と市丸の関係を調べても何もない。ちょっと触れてあるネットでも、Wikipediaに数行書いてあることをコピーしてあるだけだ。

さらに、市丸の自伝もないようだ。おそらく多くのジャーナリストや研究者が彼女と近衛文麿の関係を知りたいと思い、インタビューを試みたのだろうが、彼女は何も語らなかったのと推測する。

ここからはまったくの推測だが、芸者として旦那の個人情報をもらさないことを自分の誇りにしていたのだろう。当時の芸者たちは個人情報を漏らさないことを知っていたので、著名人たちが安心して芸者を妾として抱えることができたのだろう。

しかし、この手の情報は多くの人が知りたがる。さて、当時『週刊文春』が存在していたら、たくさんの暴露記事を書いただろうか。この質問に対しての答えは「無理だろう」が回答になる。たちまち発禁処分になり、中国みたいに出版社の担当者が行方不明になる。

今は、平和な時代であり、また言論の自由が基本的には保障されている。こんな社会に生まれたことは感謝したい。

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近衛文磨は公家である。