よく「貧しくも美しく」と言われることがある。あるいは、アジア・アフリカの新興国の子供達が遊んでいる姿をを形容して、「貧しくても、子供達の目は明るく輝いていた」という言い方がニュースなどでされることがある。

本当にそうなのか?

私は、自分の人生経験から、貧しいと劣等感で心もひねくれてしまう。素直な気持ちになれない。礼儀作法を覚えることができない。物事に対して寛容な気持ちになれない。美しく振舞うことができなくなる。と、考える。

美しくあるためには、ある程度のお金が必要だ。衣食足りて礼節を知る、という諺がある。そんなことを考えて倍賞千恵子の『下町の太陽』を聴いていた。工場で働く貧しい若い男女の恋、歌はとても美しい。

「貧しくも美しく」という気持ちになれるのは、青春時代だけの気持ちであろう。中年になれば、金の切れ目が縁の切れ目とばかりかなり現実的になる。夫婦でも金がなければ喧嘩が絶えない。愛はなくなっても金のために夫にしがみついている妻も多い。

人は老年になってある程度豊かになったら、貧しかった時代も懐かしく美しく感じられよう。しかし、老年でも貧乏暮らしをしているならば、若い時代は忌々しく感じられるであろう。

倍賞千恵子の『下町の太陽』は映画化されたのだ。YouTube でその一部を見てみると、昭和の30年代が懐かしい。工場で働く若い男女の恋愛は多くの人の共感を得たのだ。そのような境遇の人が多くいたのだ。

ふと3月26日に投稿した「動画『天使の恋』を見る」の内容を思い出した。女子高校生と大学講師の恋愛である。今の時代は工場で働く若い男女の恋愛という舞台設定では観客にアピールできない。女子高校生と大学講師という状況だと多くの観客(大半は女性であろう)は喜ぶのだ。

今の時代は、「豊かで美しく」しか人々にはアピールできない。わずか、昔を知っている老人たちが過去の「貧しくも美しかった」時代を思い出して、感傷にふけるのだ。YouTube はその意味ではとても便利な、何十年前の世界に戻してくれる便利な道具なのだ。

(動画は削除された)