2016-02-18
相変わらず須田桃子記者著『捏造の科学者』を読んでいる。専門的な難しい話を科学ジャーナリストとして一流の人がかみ砕いて説明してくれているので、素人の自分でも何となく分かる気がする。いま、小保方さんが早稲田大学に提出した博士論文が20%ほどがコピペであった箇所を読んでいる。
論文は全体で100ページほどか、そのうちの冒頭の部分がコピペであったとのこと。出だしで一般的な説明をする場合は、他の論文から引用することもあろうが、その場合は引用したことを明記すべきである。しかし、それがなかった。(なるほど、これは重大なミスである)
また、指導教員たちがほとんど指導をしていなかった実態が明らかになっている。私の感想だが、英語で書かれた100ページほどの論文を細かく指導することは日本人の先生には無理でなかろうか。また、細かく指導していると、いつの間にやら学生は指導教員に全面的に頼ることになり、教員が実質的に論文を書いてしまうこともある。また、指導教員が配下の学生を複数名ほど指導するのならば、大変な時間を取られる。
理想的なあり方としては、指導教員があるテーマを持っていて、その一部を学生に手伝わせるという形での指導ならば、指導教員は学生の論文指導が自分の研究の深化ともなるので、指導するモチベーションの維持にはなるであろう。また、現代のように、こんなに専門が細かく分化した時代では、教員が指導できるのは内容というよりも、論文構成、論理的な展開に問題がないかとのチェックだけである。あくまでも形式的な部分だけであると思う。この部分に、現代における博士論文の指導の仕方はどうあるべきか問題提起となっている。
『捏造の科学者』は330ページまで読んだ。ここまで読んだ限りでは小保方さんの研究は疑義だらけで、灰色でもなくて、真っ黒な疑惑だらけの研究とのことだ。しかし、どうしてそうなったのか、小保方さんは天然なのか。大変に無邪気な人で、研究法の基礎も知らないでこのようなことをしてしまったのか。それとも邪悪な天才で中年男の心をもて遊びながら、悪事に手を染めたのか。
今のところは私の感じていることは、生命科学の研究には、いい加減なところがあり、若干のデータの修正は許されていたのであろう。小保方さんはその程度がやや過ぎた。そして、発表した時はこんな大々的なことになるとは知らないで、『ネイチャー』に一本論文が掲載されれば、自分の研究者としての業績稼ぎになればいいや程度の軽い気持ちだったのではと思う。
ところが、『ネイチャー』に発表されるやいなや、世界中で再現を試みる実験が始まった。たち粗雑な部分が露わになってしまった。そのことを小保方さんは予想できていなかったのではないか。
さて、小保方さんの『あの日』はところどころ、ポエティックな表現が出て、30歳の人が書いたとは思えない美しい文章がある。ゴーストライターが手伝っているのは明らかである。それに反して、須田桃子記者のこの本は実際のインタビューやメールを中心に主に事実を語るという姿勢だ。情に訴える『あの日』、理に訴える『捏造の科学者』、この二つの本を対比させながら読むのは面白い。