2016-07-08
織田信長は歴史的にどのように評価されるべきなのか。織田信長がいなければどうなったのか。そんなことを今日は考えてみたい。
織田信長は1534年に尾張国に生まれた。このことは、彼に地理上の有利さを与えた。彼が九州や北陸の大名として生まれていれば、彼が天下統一を考えることはなかったろう。同時に、尾張という京都ではない場所に彼の本拠地があったことも彼にとっては有利な条件になった。
京都にいれば、足利幕府の本拠地であり、陰謀策力が渦巻いていた地である。そこから、やや距離を置いて、中央に接することが出来たということは実は有利な点ではなかったか。
彼の根城は岐阜城であった。実は岐阜という言葉は珍しい。「岐阜」は織田信長が名付けた名前である。中国の故事にならったもので、周の文王が岐山(きざん)に都を置き、そこを拠点にして当時支配していた殷を打ち破って新しく周を作り上げたのである。信長はその故事にちなんで、自分も天下を統一するという野望にもえて岐阜という名前をつけたようだ。天下統一の意思表明だ。
岐阜城の歴史であるが、国盗り物語で有名な斎藤道三が1539年に入城し、ここに居城して、その頃は「稲葉山城」と呼ばれていた。斎藤道三からその子の斎藤義男龍そして、その子斎藤龍興の所有となった。1567年に、織田信長が斎藤龍興と打ち破った。そのときに、城下の「井之口」という地名を「岐阜」と改称し、同時に、「稲葉山城」も「岐阜城」と改めたのである。このときは信長は33歳という若さである。
当時の京都は足利幕府の弱体化に伴い、三好三人衆が実質的な支配をしていた。その混乱に生じて京都に近い位置にあった織田信長が足利義昭らを奉って上洛をする。そして、最終的には足加田義昭らを追放して足利幕府は消滅するのである。
織田信長の評価は難しい。普通は、一生を終わって、つまり「棺を蓋いて事定まる」のである。だが、彼は棺に入る前に明智光秀に討ち取られてしまった格好だ。つまり不完全燃焼のまま生を終えたので、どうにも評価は難しい。しかし、あえて評価するならば、天下統一への道を拓いたという点であろう。彼が出なかったならば、日本の統一は100年か200年は遅れたかもしれない。統一が遅れていれば、西洋諸国に諸大名の対立を利用されて、植民地になっていたかもしれない。そんなことを夏の暑い日に夢想する。